踏み越え Transgression

現代文の授業の時だった。

現代文の先生は、とてもわかりやすくユーモアもあって好きだ。
やはり聡明で努力をされた方なんだろう。幅広い知識と教養を持ち合わせてる。
だから僕はこの授業が大好きだ。(現代文自体は全く苦手なのが残念だが)

その先生がこんなことをおっしゃった。

残酷な事件やなんとも理解しがたい重大な殺人事件が起こると、
容疑者に対してメディアは、よくこんな表現を使う。
少年犯罪であったり、秋葉原の無差別殺人の時も使われていた気がする。

「容疑者の”心の闇”とは・・・」

この”心の闇”とは、誰かには理解し難いような当人の奥深くに眠っている思いや
一方で、普遍的に存在する、誰もが持っているのに、ほとんどの人が意識していない考えを
さしているのだろう。(と思っていた。)

念のため、調べてみると、結構あっさりしていた。
心の平静を失って、理非の分別がつかなくなること。―大辞泉より
きっと、僕の考えは、この「心の平静」に含まれているのではないかと思う。

僕もメディアが使うこの言葉には、あまり深くは考えなかったが、「そうだろうな。」と納得していた。
おそらく、ほとんど同じであろう。

だが先生は、それを「違う」とおっしゃった。

「よく事件で使われる”心の闇”ってのは間違ってる。
あれは、”心の闇”ではなくてただ”空っぽ”なだけだ。」

どういうことだろうか。
授業の時間の都合上、詳しい事はなかった。
「空っぽ」ってなんだろう。
僕は、この先生の考え方がとても好きだから余計に気になったのである。

この「空っぽ」という意味は考え方によって変わってくる。
僕は2つを考えた。
まず1つは、強く否定的な意味だ。
「まったく思慮する心も想像力も無い」という意味である。
残酷な事件を起こしたのは、自分勝手であり
この後どうなるかなど一切考えずに思うままに行動してしまったということだろう。
確かに、極悪非道な行為をしたわけだからそんな風に捉えられて当然である。
情状酌量なんてする余地は全く無く、救いようがないのかもしれない。

もう1つは、空しいという意味だ。
内的要因か外的要因かはわからない、だがとにかく心が空虚な状態である
ということだ。そこには、何か悲しい気持ちが含んである。
自分でどうすることも出来なくなって、呆然と一人で立ち竦み、
ただただ冷たい風が吹いているように。

さてどちらだろう。大まかに考えれば両方だとは思うのだが、その先生は
とても現実的な考えの人だから前者の意味でいったのではないかと思う。

確かにその考えは至極全うだと思う。だけど、なんか違う気がする。
僕は、後者の考えの持ち主で、そうすると「心の闇」という表現は
的を得ているような気がするのだ。

人には、わかってもらいたくてもわかってもらえないことがたくさんある。
もちろん、そんなことがない人なんて一人も無く
それを抱えたまま一生懸命生きている人が大部分である。
だから、そういう容疑者に対して「甘えている」と感じられる。
だけど、実際のところ難しい。
「わかってもらえました。はい、じゃぁ気分が楽になりました。」
こんなことは絶対にない。
わがままかもしれないが、わかってもらった所でどうにかなるわけではい。
むしろ、「相手なんかにわかるわけない」という気持ちが強いから
自分の心にしまいこんでしまうのではないかと思う。
そんな自分ではどうしようも出来ない事を克服することは無理だ。
だから空しいのである。悲しい存在と思ってしまうのである。
これが積み重なると、やはりいてもたってもいられない。
その結果、耐え切れない思いが、行動に表れるのではないかと思う。

じゃぁ結局、そんな思いに耐え切れる力もなく
自制することも出来ず、自分勝手に発散しようとするところに
思慮が無い、と表現されるのではないか、ということも考えられる。

そうすると、やはりこの事はよくわからない。
心理なんて詳しくないから、勝手な想像だけで色々書いたけど
やはり人間って気難しい。
このジレンマが解明される日は来るだろうか。

11/28/2010 2:25 AM

愛と死 envy and empty

僕は物心付いたときから、いや恐らくその前から
奥底に眠る恐怖がある

それは、急に襲ってくるのだ

僕が小さなときは、言葉では表現できない奇妙な夢をよく見た
丸い物体であったり川のようなものあったり何かから押しつぶされるような・・・
いまとなっては全く見なくなったので、実際そんな夢だったかどうかも
分からないが、とにかくその夢が怖かったのだ、それだけは覚えている
それを見ると怖さのあまり、さっと起きて動き回っていた
起きているにも関わらず、頭のなかではその残像が暴れまわる
ひどいときには、泣いているときもあった
そして時間がたつといつのまにか寝ていた
今、考えてみても全く検討がつかない恐ろしい夢である

僕は、少なからず「この夢」と「奥底の恐怖」には関係があるのではないかと思う

「死」を考える
世の中には”死ぬときは死ぬときだ”と楽観的に捉えている人が多くて驚く
自分が異常に恐怖を感じているだけかもしれないが、そんな風に考えるのは難しい
もし、自分が死んだらこの意識が無くなる
もし、自分が死んだら自分の名前が無くなる
もし、自分が死んだら自分の思い出がすべて消え去る
そうすると「自分」と意識できる世界はこれ一回限りで
その後を想像すると居ても立ってもいられなくなる
その後はどうなるのだ
その後はどこへ行くのか
その後はどこへたどり着くのか
そんな気持ちが無意識から意識へと断続的に上ってくる

「抑圧」という機能が人間にはあるらしい
意識する事・物は、自分にとって不快ではない事・物だという
つまり、意識すると不快なもの、怖いものには無意識へと無理に押し込む
これを抑圧といい、人間は快を求める存在だから隠しておくらしい
しかし、無意識も黙ってはいられない
突然、無意識から意識へと突出することがある
だから尚更、怖く、恐ろしく耐えられない不快となる

それが僕にとって「死」なのかもしれない
(しかし「死」の恐怖なんて人間誰でも備えてるものだ)

こんな思いをいつまでも持ち続けている
だから現実の死を目の前にすると動けなくなる
祖母の死もそうだった
必ずこの先もこの経験が必ずある
嫌だ、目を背きたい、そんなの見たくない
無常の世界の宿命と簡単に済ましてしまうものなのか
「死」は”不幸”なのか、それだとしたら今までの世界は”幸せ”だったのか

もしそんなことがあれば自分を責めるしかない
あのとき、ああしとけば・・・と
そんな無意味な後悔しか出来ないのが余計に辛い
だから、今やっときなさいって、言葉は理解できる
だけど極端に不器用だから上手く出来ない
それでも許してくれますか、そんな自分を認めてくれますか
人間の自我という感情って本当に怖い
動物だったら本能で生きて本能で死んでいくだけ
そこには、情念も後悔も何も残らない
もちろん幸せという気持ちも無いだろうから
そうすると幸せという気持ちで死んでいける人間は素晴らしいものなのか

無常の意味ってこういうことを考えることなのかも知れない
現象自体は無常ではないのかも
われわれの心が無常なんだ、きっと

結局答えは出ない
元の生活に戻ってとしか祈れない
それだけしか出来ない
悔しいけど、哀れだ

11/19/2010 10:19 PM

歪んだ影見 mIrror

だいぶ昔に友達が言った
「毎日鏡を見ながら自分を褒めると勇気が湧く」

確かにこんな時代だがら雑誌とかテレビによる出る精神科の先生とか
いかにも良いそうなフレーズだ

実際やってみて効果があるのかどうかわからない
周りから誰にも見られてなければいいが、人にバレたらちょっと恥ずかしい
実際効果があったとしても、そういうものは気分に関わるようなもので
プラシーボ効果みたいな感じで自信が湧いて元気になることかなと勝手に解釈している

さて、鏡をみること、それは自分を見つめることだと言う
やっぱり今の自分が如実に映ってる
疲れてるな、とか元気ないな、とかそのようなレベルなじゃない
そこに歴史がちゃんと映ってる、心の状態が正確の見える
では、現実の今が映っているのかというとそれもまた違う気がする
現前には確かに今現在の私が映っているのはそうなのだが
それは、経過点であって時間は刻々と過ぎている
だから過去はもちろん現在がくるまでの未来までもが覗けるのではないか

今の映る私は、あまり良くない、いやあまりではない、とてもよくない
鏡を見たとき、心の状態がはっきり見えると少し不安が付きまとう
それを変えることはできるのだろうか

人間の人生は文脈依存的だという
「犯人のわからない推理小説」のようなものらしい
事件が起きてから犯人が見つかる間にはありとあらゆるイベントがある
イベントという表現は合っているかどうかわからないけど
ヒントであったり証拠であったりゼロからやり直りになったり
犯人が見つかったとき、人間の死を意味する
僕たちは、その間に生きているというのだ

だからもし犯人が見当違いだったとしてもあせる必要はないし
がっかりする必要もない
むしろ犯人がわかった途端に、なにかつまらなくなってしまうだろう
また探せばいいのだ

だから僕は信じたい
この映っている鏡も文脈依存的である、と

なぜなら鏡という言葉にもヒントがある
「影」という意味を知っているだろうか
影は現代語では物の影、人の影とった
黒く映る部分を意味するが
古文の意味はその上記の他に
「その影の映るもとの姿」という意味も存在する

それを見ること→影を見る→影見(かげみ)という
これ次第に変わっていき「鏡(かがみ)」となった

鏡は、自分の姿を見るものだのだ
今の状態を教えてくれるだけで固定してしまったのではない
姿が変われば、鏡の映る姿も変わる
今それがどのように映っていたとしても変えられる

最後にもう一つ
影には「光」という意味もある
僕は光を探し求めたい、そこにはいつか見えるはずだ
その日まで、孤独と闘うしかない

11/17/2010 2:01 AM