本当に覚悟していたのだろうか Getting worse…?

いつのまにか、ブログを更新しない日々が続いてしまった。
なんとなくツイッターメインになってしまった気がする。
このブログは、もっと自分が書きたいこと、思っていることを
自由に書く場だから、のんびりと書いていきたいと思う。

(そのためにお金を払っているんだ笑)

さて夏休みはいろいろあった。
何か始めたいという気持ち、いや、焦りがあったから
とりあえず英会話スクールに通い始めはや2カ月ちょっと。
父親から「惰性で通ってるんじゃないか」と言われ、正直ドキっとする。
面と向かって否定できない自分がいた。
ちゃんと休むことなく通っているし、先生が書いてくれた復習プリントも
一通りこなしている。だけど、頭に浸透している感覚がない。
相変わらずカナダの友達に会っても、英語がパッと出てこないし
誰かに「じゃぁ、英語話してみて」って言われても正直困る。
きっと自分の考え方が邪魔しているんだろうな。
もっと、前向きに素直に謙虚に勉強出来るなら状況は変わっているはず。
そんなみっともない妄想をしながら勉強に更ける。
なんか前と変わってないなぁ。

あとはバイトを始めた。
やっと。前期は、映画を作るというとんでもない授業があったから
時間が無かったような気がする。
でも振り返ってみると土曜、日曜は結局、暇してたから言い訳かも。
バイト先は、某有名家具屋。
まぁtwitterでジャンジャン言ってるから隠すことないんだけどさ。
外国の血が流れている会社はどんなところだろうと興味深々だった。
だけど、興味だけでは通用しない部分がいっぱいあった。
いや、むしろそれ以外なかったといっても良いだろう。
もちろん、そういうような素晴らしい環境で働けるのは嬉しい、光栄だ。
でも結局、ひとつの会社・バイト先というような目で見ていた自分がいた。
最初のころは、自分の、半ば空想的な力を信じて
偉そうなことばかり考えたり、動いたり、言ったりしたけれども
現実問題全て間違っていたんだろう。そう実感した。
時間も守るのもそう、意見を述べるのもそう、上下関係もそう。
何もかも変わらなければならないのは自分だった。

これこそが、社会だ。

過去に縛られ、なにも出来なかった自分。
人の手を借りてようやく起きれた自分。
そこから、また、歩いていこうと決めた自分。

これから起こることを覚悟しているつもりだった。
自分たちが生きる社会のことを。
そして必ず出会うだろう大きな逆風に。

幸いなことに、まだ諦めたいという気持ちは生まれていない。
どこからでもいい。小さな光でもいいから、照らしてくれる人が見つかるはずだ。
そんな淡い期待を抱きながら、毎日を生き続けている。

きっと、そんな自分は恵まれている。
明日は必ず来るんだし、毎日、笑顔も作れる。

そんな明日は、タイの留学生の子たちとスケート。
良い日になるといいな。
タイの留学生の話は追って書きます。

11/5/2011 1:08 AM

これでいいはず You inspired me

英会話を習い始めて2回目。

まだまだ、3人称単数のsをつけ忘れたり、時制を間違えたりと
初歩的な間違いばかりで恥ずかしい思いはするけれども
英語を話そうという気持ちが目で見える。
がんばって英語で表現してみようという気持ちが表れている気がするのだ。
それが、とても心地良く、楽しく感じる。
これでいいのだ。この調子で前に進めば。

今は、難しい表現を学ぼうというよりは、初歩的な質問を
どれだけ早く流暢に答えられるかという訓練をしている。
いつ、どこで、だれと、なんのために、ほかには?というように一つずつ細かく聞くことなんて
普段の会話には滅多にないと思う。それに不自然でもあろう。
だが、不自然な会話云々言う前にまず答えられなければ意味がない。
だから、ちゃんと答えられる訓練が必要なのだ。

簡単な質問に答えているだけだが、答えている自分が微笑ましく感じる。
あ、英語で答えているじゃん、というように。
この繰り返しが、上達への道なんだろうな。
初めてこんな風に感じたかもしれない。こんなに英語勉強してきたけれども。

初めてのレッスンの時、中学生が同じ席にいた。
彼女は英語が非常に上手くて、流暢で、単語も一杯知っていて。
あまりのショックさにくじけそうにもなったが、彼女も一生懸命努力したはずだ。
自分も、同じように努力すれば彼女のようになれる。
そんなポジティブな考え方をしている自分が気持ち悪いくらいだ。
あんなに卑屈だった、あの自分が。
自分だけではなく、みんなと一緒に上達するという気持ちが、とても清々しい。
自分だけ出来なかったら・・・と、不安になることもあるが
それはそれでいいはずだ。それが自分の実力。
あとは、向上するだけなんだから。

今、やれることを今やろう。
恥ずかしがる必要なんてない。
考え過ぎちゃいけない。
自分が好きなこと、大事なことをやろう!

もう振り返る必要はない。前を向くことだけを考えて。
絶対にやり遂げる!後悔なんてしちゃいけないんだ。

ありがとう。君のおかげだ!
Thanks to you, I can do and walk again.

8/12/2011 1:22 AM

教訓 Lessons

この1年間を振り返る。

たしかあの日は雨が降っていた。
目の前が真っ暗になったあの日。
この先どうすればいいのかわからなくなったあの日。
自分を見失ったあの日。

人々の力を借りてどうにか立ち上がった。
勇気をだして一歩を踏み出してみた。
取り戻せない過去を引きずらないように明るくして見せた。
でも、忘れることができなかった。
そればかりを責めて、結局もとの自分に戻ることが毎日のようにあった。

ただ、前を見ることは忘れなかった。
明るい未来を目指して。

そして今がある。
この1年間で感じたこと、山ほどある。
自分が思っているよりもはるかに時間は大切だということ。
自分が思っていた「孤独」というのは自分が作っていたこと。
本当の「孤独」と向き合う覚悟が出来たこと。

もう一度やり直せること。

この1年の努力は、結果として実らなかった。
努力が足りなかったのかもしれないし、
運もなかったかもしれない。
でも手に入れたものは結果以上に大切である。
だから前を向いて、今自分が出来ることをやっていくしかない。

不条理だと思ってしまう。
いや、不条理が普通なのだ。特別なものでもなんでもない。
でもそれを受け入れた瞬間、新しい道が開くものではないかと思う。

これからも辛いことは山ほどある。
耐えられるか今でも不安だ。
恐ろしい。

ただそれでも生きていかなければならない。
少しでも明るい未来を想像しながら。

これまでの自分の過去と比較すると
ニュージーランドで起きた地震の被災者が惜しくてならない。
どうしてこんなことがおきたのかと。
自分がこうなるべきだったのではないかと。

そこに人間の「悲しさ」がある。
世の中では楽観主義が優位に立っているが
人間の本性は悲観主義にあるのではないかと思う。
だからこそ、「悲しい」のだ。

僕は生きていく。
こんな自分だけれども、ちゃんと生きていく。
それが正しい生き方だ。

3/5/2011 7:22 AM

踏み越え Transgression

現代文の授業の時だった。

現代文の先生は、とてもわかりやすくユーモアもあって好きだ。
やはり聡明で努力をされた方なんだろう。幅広い知識と教養を持ち合わせてる。
だから僕はこの授業が大好きだ。(現代文自体は全く苦手なのが残念だが)

その先生がこんなことをおっしゃった。

残酷な事件やなんとも理解しがたい重大な殺人事件が起こると、
容疑者に対してメディアは、よくこんな表現を使う。
少年犯罪であったり、秋葉原の無差別殺人の時も使われていた気がする。

「容疑者の”心の闇”とは・・・」

この”心の闇”とは、誰かには理解し難いような当人の奥深くに眠っている思いや
一方で、普遍的に存在する、誰もが持っているのに、ほとんどの人が意識していない考えを
さしているのだろう。(と思っていた。)

念のため、調べてみると、結構あっさりしていた。
心の平静を失って、理非の分別がつかなくなること。―大辞泉より
きっと、僕の考えは、この「心の平静」に含まれているのではないかと思う。

僕もメディアが使うこの言葉には、あまり深くは考えなかったが、「そうだろうな。」と納得していた。
おそらく、ほとんど同じであろう。

だが先生は、それを「違う」とおっしゃった。

「よく事件で使われる”心の闇”ってのは間違ってる。
あれは、”心の闇”ではなくてただ”空っぽ”なだけだ。」

どういうことだろうか。
授業の時間の都合上、詳しい事はなかった。
「空っぽ」ってなんだろう。
僕は、この先生の考え方がとても好きだから余計に気になったのである。

この「空っぽ」という意味は考え方によって変わってくる。
僕は2つを考えた。
まず1つは、強く否定的な意味だ。
「まったく思慮する心も想像力も無い」という意味である。
残酷な事件を起こしたのは、自分勝手であり
この後どうなるかなど一切考えずに思うままに行動してしまったということだろう。
確かに、極悪非道な行為をしたわけだからそんな風に捉えられて当然である。
情状酌量なんてする余地は全く無く、救いようがないのかもしれない。

もう1つは、空しいという意味だ。
内的要因か外的要因かはわからない、だがとにかく心が空虚な状態である
ということだ。そこには、何か悲しい気持ちが含んである。
自分でどうすることも出来なくなって、呆然と一人で立ち竦み、
ただただ冷たい風が吹いているように。

さてどちらだろう。大まかに考えれば両方だとは思うのだが、その先生は
とても現実的な考えの人だから前者の意味でいったのではないかと思う。

確かにその考えは至極全うだと思う。だけど、なんか違う気がする。
僕は、後者の考えの持ち主で、そうすると「心の闇」という表現は
的を得ているような気がするのだ。

人には、わかってもらいたくてもわかってもらえないことがたくさんある。
もちろん、そんなことがない人なんて一人も無く
それを抱えたまま一生懸命生きている人が大部分である。
だから、そういう容疑者に対して「甘えている」と感じられる。
だけど、実際のところ難しい。
「わかってもらえました。はい、じゃぁ気分が楽になりました。」
こんなことは絶対にない。
わがままかもしれないが、わかってもらった所でどうにかなるわけではい。
むしろ、「相手なんかにわかるわけない」という気持ちが強いから
自分の心にしまいこんでしまうのではないかと思う。
そんな自分ではどうしようも出来ない事を克服することは無理だ。
だから空しいのである。悲しい存在と思ってしまうのである。
これが積み重なると、やはりいてもたってもいられない。
その結果、耐え切れない思いが、行動に表れるのではないかと思う。

じゃぁ結局、そんな思いに耐え切れる力もなく
自制することも出来ず、自分勝手に発散しようとするところに
思慮が無い、と表現されるのではないか、ということも考えられる。

そうすると、やはりこの事はよくわからない。
心理なんて詳しくないから、勝手な想像だけで色々書いたけど
やはり人間って気難しい。
このジレンマが解明される日は来るだろうか。

11/28/2010 2:25 AM

歪んだ影見 mIrror

だいぶ昔に友達が言った
「毎日鏡を見ながら自分を褒めると勇気が湧く」

確かにこんな時代だがら雑誌とかテレビによる出る精神科の先生とか
いかにも良いそうなフレーズだ

実際やってみて効果があるのかどうかわからない
周りから誰にも見られてなければいいが、人にバレたらちょっと恥ずかしい
実際効果があったとしても、そういうものは気分に関わるようなもので
プラシーボ効果みたいな感じで自信が湧いて元気になることかなと勝手に解釈している

さて、鏡をみること、それは自分を見つめることだと言う
やっぱり今の自分が如実に映ってる
疲れてるな、とか元気ないな、とかそのようなレベルなじゃない
そこに歴史がちゃんと映ってる、心の状態が正確の見える
では、現実の今が映っているのかというとそれもまた違う気がする
現前には確かに今現在の私が映っているのはそうなのだが
それは、経過点であって時間は刻々と過ぎている
だから過去はもちろん現在がくるまでの未来までもが覗けるのではないか

今の映る私は、あまり良くない、いやあまりではない、とてもよくない
鏡を見たとき、心の状態がはっきり見えると少し不安が付きまとう
それを変えることはできるのだろうか

人間の人生は文脈依存的だという
「犯人のわからない推理小説」のようなものらしい
事件が起きてから犯人が見つかる間にはありとあらゆるイベントがある
イベントという表現は合っているかどうかわからないけど
ヒントであったり証拠であったりゼロからやり直りになったり
犯人が見つかったとき、人間の死を意味する
僕たちは、その間に生きているというのだ

だからもし犯人が見当違いだったとしてもあせる必要はないし
がっかりする必要もない
むしろ犯人がわかった途端に、なにかつまらなくなってしまうだろう
また探せばいいのだ

だから僕は信じたい
この映っている鏡も文脈依存的である、と

なぜなら鏡という言葉にもヒントがある
「影」という意味を知っているだろうか
影は現代語では物の影、人の影とった
黒く映る部分を意味するが
古文の意味はその上記の他に
「その影の映るもとの姿」という意味も存在する

それを見ること→影を見る→影見(かげみ)という
これ次第に変わっていき「鏡(かがみ)」となった

鏡は、自分の姿を見るものだのだ
今の状態を教えてくれるだけで固定してしまったのではない
姿が変われば、鏡の映る姿も変わる
今それがどのように映っていたとしても変えられる

最後にもう一つ
影には「光」という意味もある
僕は光を探し求めたい、そこにはいつか見えるはずだ
その日まで、孤独と闘うしかない

11/17/2010 2:01 AM

源氏物語からまねぶこと True Yamato Damashi

こんばんは!
まったく更新しませんでしたがとりあえず元気にやってます

気が付くと、
何人かはskypeをやり始め
何人かはtwitterをやり始め
何人かはアメブロをやり始め・・・

こうやってネットの面白さを体験し始める人が増えてきてすごくうれしい!
こんなのときを心待ちにしてたんだもの

小さいころから、その辺りには詳しいほうだったから
みんなに勧めたくてうずうずしてたけど
「興味ない」とかなんとかでどうしようもできなかったな

やってる人は教えてね、登録しちゃうよ!

この前、ある人がこんなことをいってました。

「すべてではないが、俺には特別な満月があるんだ。
それを一人で眺めるとなんか心が震えだして共鳴するんだ。」

中秋の名月は特にそうらしいです。
この前、その前日に言いました。

この人のあだ名は、「宇宙人」
そんなこと言うから宇宙人呼ばわりされるんだと、誰もが思ったでしょう。
僕もそう思いました。
共鳴って形の無いものだし、実際にあるかどうかもわかりません。
しかも共鳴したところで、何があるんだ、何がわかるんだという話になります。

しかし、この前、それを何となくですが感じたことがありました。
そう、僕にとっての共鳴したものは、源氏物語だったのです。

源氏が自分の子供「夕霧」の元服に際して、教育方針を語る
という「少女」の巻にある一部分です。

夕霧の元服の際に、位の高い官位を渡すのではなく
まず学問の道に付いて才を身につけさせたいという考えを
源氏自身の体験と世の中の現状を通して、心に決めたというお話なんですが

この「源氏自身の体験と世の中の現状」がものすごく深いのです。

源氏はこう語ります。
自分は、宮中で生まれて漢の書物など読むこともできたし、立派な父の下で
いろいろなことを教えてもらえたという贅沢な環境だったのにも関わらず
世間のことをよく知らず、ものごとに対する広い心も無かったから
どうすることもできなかったということ。

そしてこんな情けない親で子供が立派に育つということは滅多にないことだから
将来の子孫を考えるにつけても不安でどうしようもないということ。

世の中には、身分の高い家で生まれた子供が努力をしなくとも
高い位をもらって驕っているが、それは一瞬の栄光だけで跡形もなく消えてしまい
後には人から侮辱されてしまうのが世の中の流れだということ。

だから、私は、夕霧に学問に通わせることにより
これからの日本を担ってもらうために「大和魂」を身につけさたいのだ、と。

僕はこの上2行を聞いた時に、心が振るえあがったのです。
感動に近いんだろうけど、微妙に違うんです。

こんなに突き刺さる思想って、すごいと思いませんか?
源氏物語って1000年ごろに作り上げた文学ですよ。
現代とまったく変わらない普遍的な思想がこの時代から残されているのです。
やっぱり紫式部ってすごい!

この「大和魂」
現代では、日本人には”底力がある”とか”力強い”などといった意味で使われるけど
本当の意味は違うのです。
日本には残念ながら中国やヨーロッパと違って
独自の文化をゼロから作り上げる国ではありませんでした。
科学といったものや、宗教も。
そういうと、日本が劣っているのかと思うかもしれませんが、そうではありません。

日本には文化を取り入れて
自分たちの国にぴったりと合うように変えていく応用力があるのです。
自分たちのカラーに変えることができるです。
そのような知恵や才能を「大和魂」というのです。
それは、西洋では絶対にできないことだと思います。

この応用力って、とても大事なことだと思うんです。
突き詰めていくと、洞察力ともいえるのではないでしょうか。
人間が生きていくためには、是非を区別していかなければなりません。
身勝手に区別したところで混沌はますます増すばかり。
だから、その是非を区別するには、知恵と才覚を基にして
複雑に絡み合っているこの世の中を上手く見極めることが大事なポイントだと思います。

自分にはこの大和魂が欠如しているのです、ホント。
きっとその強く強くほしがっているこの力が
心を震わせ、共鳴させたのでしょう。
妙に納得しちゃいました。

昔の人の経験を今に役立てられることって、こういうことだと思うんですよね。
紫式部が熱い思いで、このように語ってくれているのだから
信用していいはずです。同じ日本人なのですから。

この思うようにうまくいかない世の中だからこそ
学問を身に付けて大和魂を育ててこれからの日本を担っていくことが
私たちがしなければならない、そして見つめなければならない問題なのではないでしょうか。

そう、だから勉強がんばる!笑

明日は久しぶりのお休み!だからこんな遅くまでかかってしまった!
では、おやすみ。

10/1/2010 2:44 AM